昭和54年9月13日 朝の御理解
御理解第92節「神は一体じゃによって、此方の広前に参ったからというて、別に違うところはない。あそこではおかげを受けたけれど、ここではおかげが受けられぬというのは、守り守りの力によって神のひれいが違うのぞ。神の守りをしておれば、諸事に身を慎み、朝寝をしてはならぬ。早く起きると遅く起きるとは、氏子が参詣の早い遅いにかかわるぞ。」
これはお取次ぎに従わしてもらう人たちに対するご理解と思います。けれどもそれを私供教師とか、信者を問わずこのご理解を、力を受けるというところに焦点をおく。または氏子の参詣が教師の早起きをすることと関わりがあると言われるということは、もうこちらの信心次第だよという意味なんです。早く起きると、教師が早く起きる。そしてご神前奉仕をするとご信者も早くお参りをしてくるようになると。ね、だから立派な信心をすりゃあ立派な信者が育つぞというのと同じなんです。まあいうならば、合わせ鏡と言われる、こちら次第なんだよということに焦点をおきますと、これは教師だけではない、お道の信心をする人の全部が頂けるということになりますですよね。
守り守りの力で、いうなら例えてそれぞれの商店でもよければ会社でもよい。それも店主の力次第なのだよと。そこの社長さんの力次第で伸びるも伸びないもあるんだよということも言えるわけです。ね、お道の信心をもとにしておかげを頂くということになると理屈は同じなんです。そこで私は昨日の朝の御理解を頂いてもえらい感じさせる所がございました。
そして引き続いて昨日は美登里会でしたから、美登里会の研修に参加させてもらいまして皆さんの発表を聞かせて頂いておるうちに、いよいよそういう思いを強くいたしたんです。というのは、こういう発表がございました。
ある会員の方が、ここから遅うに帰らせて頂いたら、お風呂に入ろうと思った。もう一年位なりますでしょうか、お嫁さんを迎えられて、そしたらお風呂がこれ位ばかりしかお湯がなかった。はあ、本当いうたら嫁がおりますから、お母さんがお帰りになったら十分そのお風呂が沸いておって、そこはまだ槙で焚きよんなさりますもん、風呂を。だから水をたくさん入れてください、少し下から沸かしましょうか位言うのが、普通言うなら本当なんだと。
ところが嫌いかなんか知らんけれどもまあプンプンしてから二階さんあがんなさったと。それで風呂から上がってからまあお茶でも頂いて、二階にそのまま嫁さんの名前を言うてお茶やら飲まんかというたらあんまりプンプンしとったけん気の毒かったってしょう、あの降りてきてから一緒にお茶を頂いたという話でした。それでいうならば、よめごが私の信心を育ててくれますという、ありがたいという発表でした。こういう話を今まで合楽では以上に一つの素晴らしい美談としてみなさんが言いもし、また聞きもしましたけれど、また素晴らしいことなんですよ。その難儀なら難儀、困ったなら困ったと、いうなら良くないなら良くないでです、そこからその人と親の信心が進むというわけなんですからね。 ですけど私こういう考え方は間違いだなと思うようになりました。それは昨日の朝の御理解を頂いて、深く頂けば頂くほど、まあいうならば十字架を背負う生涯であってはならんと思うからです。私はい家の犠牲になる、私は子供の犠牲になる、そういう考え方が実をいうたら間違いなんだということなんです。それがです、やはりその犠牲という、その答えが合楽理念にはないと。
先日これは久留米の佐田さんの素晴らしい、自分が体験しておられるからこそ、そういうことが言えた。いつも犠牲になっておる、また自分が犠牲になろうと思うておられる。ですからいつも犠牲になり、またあまんじてそれを受けていかれる、だからおかけで力を頂く。だから5のおかげを頂いておられる次には今度は10のおかげになる。10のおかげの次には20のおかげになるというふうに、おかげは頂いておるけれども、だから犠牲じゃない。けどもそういうです、縁の下の力持ち的な力を頂いて一生それで終わらんならんということがあってよかろうはずがない。合楽で決してそげなことはない。
昨日そのことをしきりに考えました。例えばそのよめごさんと、姑になられる方の話は素晴らしいことなんですから、信心ちゃありがたいなと思うけれども、いつもその嫁さんの下敷きになっとらなんごたることでは信心を頂いているものが本当に尊いことだ、有難いことだというけれども、ならこれを信者以外の人に聞かせたら金光様の信心ちゃいつでんずっと嫁ごの下敷きになっとらなんてえのという感じしかないでしょう。なら貧乏なら貧乏をしておるということがそれによって力を頂きます、それによって有難いと思いましたという、ね、本当にその日暮らしもありがたい、神様の間違いなさを感じます。というても、金光様の信心をしよりゃみんなその日暮らしならはあ、私どんじゃできんとこう言われるところ。そこにゆとりがあり、いうならばその話を反対にして、ここから遅く帰らしてもらいましたら嫁ごがちゃんと風呂をわかしてから待っとってくれました。そして今度はばばさんがお茶飲まんのじゃなくてです、お母さん、お茶が入りました、お茶を頂かれませんか。と反対に声をかけてくれるようなおかげを頂いてこそ、初めてなるほど、信心しよんなさる家庭は違うということになるのじゃないだろうか。
それがです、お互いの心の中の潜在しておる意識なんです。私は一生縁の下の力持ちでよいと、子供さえ立派になれば、主人さえ立派になれば、お店さえ繁昌すれば私はその犠牲になることを安寿して私はいよいよ力を受けていくから、まず力を受けていくでしょうけれども力の受け方がです、もっとあかぬけした受け方がありはせんじゃろうかということでございます。これは私自身もそれなんです。縁の下の力持ち的な、いうならばまあ一生を思うてみるとそんな感じがします。ね、けれどもそれは一つの過程としてよいとしましてもです、力を受けるのに、そういう貧乏くじをひかなければいけないというのではなくてです、初めから宝くじがひかれるような生き方はないものかというようなことを、私は昨日のご理解から感じるようになりました。
根本的に私共は心の中からそういうものをとっていかなければいけないなということ。ね、なるほど、力を受けていきます。今日は、もりもりの力といわれるそのたくさんのお参りがあるとかないとかいうけど、それは結局はもりもりの力、そこの教会長の力次第だよというのですけれども、そのここではなら、御信者のみなさんの場合にそれをあてはめてもよいわけです。お店が繁盛する、それはそこの社長さんの力だよと。そこの店主の力があるから繁盛するんだよという事になりますから、問題は力を頂かなければならない。その力をです、今まで私は私自身もそうでしたけれども、もうとにかく縁の下の力持ち的な信心で力を得てきたように思うんです。それがいけないのじゃありません。けれどもそれではあまりにもこくです。そういう考え方は一生、おそらく表面にも出てない、いうなら縁の下で辛抱しなければならない。力はもりもりと出来るけどね。
そこでです、これは二、三日前でしたけれどもある方から電話がかかってきた。今度の御造営が始まるようになって御本部で一千万のお供えをしたいというてお供えになった。おかげで半ばはお供えが終わった。けしてありあまってからのお供えじゃないのです。一生懸命お願いをしていってそれが段々出来てきたんです。そこで、夫婦で話合って「これは本当にお父さん、お取次ぎを頂いておかげを頂かなければいかんですばい。」というてお取り次ぎを願われたわけです。それで、せめてここの十五年祭までにはそれを完璧にお供えできれるお取次ぎを頂きましょうというて電話がかかってきたんです。
どうでしょう。こういう素晴らしい力の受け方があるわけなんです。億万の金を持っとってそれから一千万のお供えをする位なら誰でんできるわけです。できんことないて。けれども御造営というのがいつもかつもあるわけじゃない、今度はお父さんいっちょ本気でお店のうえにご比礼をいただいておかげをいただかなんならんですばいと。どうでも一つおかげを頂こうというてそれこそなかばおかげを頂かれたんです。でこれから先のところをお取次ぎを頂いておかげを頂こうということになっておかげで商売も、本当に繁盛一途をたどっておることなんです。だからおかげでいうならばお供えが出来る。どうでしょう、百万円お供えのできる力よりも一千万円のお供えができる力を頂いた方が良くないでしょうか、皆さん。
私力を頂くということはね、そういう縁の下の力持ち的なところで、昨日からしきりに感じるのです。力ということは、いうならもっと祈念の力とか、神様を信じる力とか、これが力なんですけれども、縁の下の力持ち的な所から神様を信じる力を頂いていくといったようなことよりもです、そういう表面に出てくる、しかも素晴らしい、神様も喜んで下さる、金光大神も喜んで下さる、自分もこういう力が頂けていくことが嬉しい、有難いという力を受けていくということ。これは合楽理念にもとづく力を頂くということはこういう風にこれから変わっていくのだという風に私は昨日から思うようになりました。
これならばです、誰が聞いても、ほう、金光様ちゃ有難いなということになりはせんでしょうか。ほう、私のところの嫁ごもこうでああで、年寄りでんなんでんろくそにしますと。それでもそれを有難いと受けておかげで力を頂きよりますと。これじゃ示現活動になりませんですよ。信心のない者は、ほうそんなこつのち、私は信心しなさるけん嫁ごさんが親を大事にするようになったと言うかと思うたら、反対ですのちいうたらそれまでじゃないか。
自分自身はもりもりと力を受けていくのですからね。けれども力の受け方というか、力を頂く、神様をいよいよ信じて疑わない力というものが、もっとありがたいことで力の頂けれる、いうならば切り替えを、いうならば観念を切り替えていくということなんです。中々難しいです。糖尿病は甘いものは食べられん、辛い物は食べられん。けれども神様の御物として有難く頂くというまでの観念はいっぺんに出来るようなものじゃないです。やっぱり、神様を信じる力がだんだんできてきて、初めてそこのおかげが頂けるようなもので。だから実験実証をそういう意味合いでさせていただかなければいけません。
いうならば、教会の縁の下の力持ちでおかげを受けるよりも、それこそ表面にでての、それこそ有難い、誰が見ても誰が聞いても「ほう、金光様の信心をすればそういうおかげが頂けるばいな」と、いうなら示現活動するのにもしよくなってくる。なるほど金光様の信心しなさるから繁盛の一途をたどると思いよったらそういう力を受けていきござるから繁盛するとじゃなと、いうならば人にも伝えることができる、また聴いても合点がいく。ただ苦しいだけの所に有難いを感じるだけじゃなくて、いよいよ有難いことが有難いと分からせてもろうて、そこから受けていく力。
まあそれとこれとが一緒になったような感じですけれども、昨日、日田の井出さんという方が一心にまいってきます。先生、夕べ神様にこういうお知らせを頂いたというてお参りになりました。書いてある、123と。ちょうど親先生が30歳位の若さですもん。こえらしい人形ば書いちゃる。後から見て下さい。そしてこうしてなさるとがもう、力こぶしがこうできてなさるという、これが初めに頂いた。親先生、30歳位の若々しい親先生。
それがその親先生が、もうそれこそダブダブするような大きな風呂に1人で向こう向きに入っておられるところを頂いたと。
30歳位の若々しい親先生、力こぶがいっぱいあるというのが第一部である。第二部は大きな風呂に親先生が向こう向いて入っておられる。向こう側はタイル張りになっとる。そのタイル張りに、そのタイルに押し込んであるというか、どういうことが書いてあるかという、景色何かが書いてあるとがありましょうが、あんな具合にです、一志一心と書いてあった。いっしとは一つの志しということ。いっしんとは一つの心ということです。そしてこの第三部はね、お神酒の一升瓶を頂いてレッテルに清酒一心とあった。ほらあんた、今日の御理解ばいという話したことでした。
まず力を頂かなければならないということです。風呂に入っとるということは、もうそれこそ娯楽ということでしょう。それもなら私の一つの志しというものが一心に貫かれたところから、それこそああ極楽というようなおかげを頂いておられる。これが極楽の世界。それから清酒、一志一酒というお神酒なんです、お酒なんです。しかも一升瓶の。これがいうなら力を頂く、極楽へ行くそのまいっちょ向こうの合楽の信心ということになるのです。さっきも聞いて頂きましたように、そういう過程を通ってありがたき、もったないき。
夕べ遅く帰りましたらみんなちゃんと起きてまっとってくれて、風呂も沸かしておってくれましてこうでした。そしてお茶まで準備しておってくれましたと、さっきの話の反対のようなおかげを頂いたという、有難い、もったいない、なら誰にでも頂かせれるという意味です、お酒というのは。誰にでも頂かせれる。けれどもなら反対にね、お湯はもうほんなちょこっとばかりしかなかった。それをなら辛抱して有難く入らせてもろうて、そして嫁ごにこっちからめんすとるごとしてお茶いただかんのというようなことではね、それでも嫁ごが私の信心を育ててくれるから有難いというたっちゃ素人は分からんです。それよりか、本当におかげを、こういう御用が頂けるようになったという、ほんとそげんあんたんとこの商売は、いつまでたっちゃ繁盛しよるですのというて、御用もこげんしてできていきよるですよというたらです、誰にでもそれを聞いてもろうて、合点してもろうことができる。お神酒ですから、誰にでもついでさしあげることができる。本当に私は示現活動というのは、そういうおかげでなければいけないと思うです。昨日の御理解をさかいに合楽の信心が一段と変わった。もう合楽の信心には犠牲はないと、例えば佐田さんが言われたという、素晴らしいことだと思っておったけれどもそれでいて犠牲になり続けておられるではないかと。いつまででん貧乏くじをひいとる様子だけを見とったのじゃ素人はついてききらんということなんです。だからこの観念をね、捨てきるということ。信心させていただいておかげを受けるということは、もうすでに十字架をかろうとる。十字架が重ければ重いほど力を頂くという生き方ではなくて、これはひとつの例ですけれどもです、例えば百万よりも一千万のお供えが出来れる力を頂くということの方が素晴らしいでしょうが。そしてそれをおかげを頂いた暁には、なるほど一千万の徳を受けておるとするなら、こげなん有り難いことはないでしょうが。御造営の時に私と二三夫先生が当時の、いうなら十二年前、十二年か三年になますか。前の百万と言えば彼にとってはそれこそ大金だった。ようやく単車で被服の行商をしておる位の時分ですから。もうせめて五年かかり位で百万のお供えをしたいと思うておった。ところが御造営が終わらん前にその百万円のお供えをしぬいた。おかげを頂いた。そしてそれからこっち百万円だけなら、いつも私は不自由はしませんと言っておるでしょうが、今でも。百万円の力と徳を受けたわけなんです。だからなら今は、十何年後になっているから、一千万なら一千万の徳を受ける。もう一千万のお金だけには絶対不自由しませんというような力を徳を受けるなら、その徳なら、その力ならばもう誰が聞いても合点がいくということであります。もうそういう貧乏くじをひいてじっと辛抱して、おかげで辛抱力ができました、おかげで縁の下の力持ちじゃあるけれども、もりもりするような力ができましたというだけでは、信心とはそんなに苦しいところを通らなければならんだろうかと思うような思いが強いです。そうじゃなくてです、だからここは聞いたからすぐ出来るようなものじゃないです。実験です。
だから十万の徳でもいいじゃないですか、百万の徳でもいいじゃないですか。本気で神様にお願いをして、そういう徳を頂かせてください、力を頂かせてくださいという実験に移らなければいけない。そしてその実証ができた暁にはです、百万なら百万の徳。お金には不自由はいたしませんというようなお徳であり、力が受けられるということになる。そういうありがたきもったいなき恐れ多きであるとこのものならば、誰にでもおすそわけができる。そのお神酒なら誰でも頂くだろう。ただいつも嫁ごの下敷きになって力を受け取るというてもです、誰でんにはそりゃ、保証もないとにそげなことはできんというて、頂かせようとしてもその有り難き勿体無きのお神酒を頂こうとはしないのだと思う。
これは合楽の信心は大代わりに変わってくる。合楽理念の内容というものは、例えば今日の御理解で、もりもりの力で比礼が違うという、その家の頂いている信心の力で家の繁盛、または繁盛でない が出てくる。その繁盛もです、今日皆さんに聞いて頂いたような意味合いにおいての繁盛ということになってくるおかげを頂きたい。早い遅いは氏子の参詣の早い遅いに関わるぞということは、もうそのまま合わせ鏡ぞと。人間のお前達の心次第だよと。
ですから私たちがです、その心次第を、犠牲になることがよいことのような考え方を金繰り捨ててですね、いうならばその十字架を、昨日の御理解はこのことだったとこう思うんです。十字架を足すという字に直すところを頂いたんです。今日はいうなら、その十字架を足すの字にかえていくということを、また昨日の美登里会でまた強く感じましたから、聞いて頂いたんです。そしてまた、井出さんのこの絵から見てです、力、そして極楽のおかげをいただいて、そしていうならば合楽の信心、そして自分の頂いているおかげを人にも伝えてあげられる、お神酒を頂いてもらうことができるような、いうなら三つの図から特にまた強く感じました。
だからひとつ観念を変えるということは、親先生はあげん言いなさるばってんちいうような気持ちもなさるかもしれんけれどもです、これを実験していくんです。そこに必ず実証が生まれてくるです。そして、金光様の信心をすれば、犠牲に精神ばっかり強めていくのじゃない、もっとありがたいと意味の信心を身につけていくことだという風にすっきり切り替えられていく時にです、いよいよ合楽に光り輝くものになっていくと思うんです。どこに持っていってもいうならば、みんなに分かってもらえる、いうならば金光教の信心がです、特に合楽の信心が、合楽理念は普遍性にとんでおるということを申されますけれども、こういう信心がいただけたときにいよいよ本気の意味においての普遍性にとんだ合楽理念ということになるのじゃないでしょうかね、どうぞ。